神社マップ【長崎県長崎市】柿泊町、向町

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【柿泊町】白髭神社(しらひげじんじゃ)

しばらく上ると、町と海が見渡せます。

鳥居と拝殿


基本情報

【神社名】白髭神社
【住所】長崎県長崎市柿泊町1028
【撮影】2013年
【祭神】猿田彦命(サルタヒコノミコト)
【創建】-






【向町】淡嶋神社(あわしまじんじゃ)

国道202号線からの蝶ヶ崎トンネル付近

淡嶋神社と言えば、女性の守り神。

式見の町の風景

こちらは川沿いの、一の鳥居

車で登っていけます。

手水舎

境内と拝殿

由緒書

近海丸殉難者之碑

沈没した木造渡海船「近海丸」について、長崎交通船が長崎港大波止と長崎市三重地区間を運航していた。三重から式見を経由し、途中で沈没した。
客乗員338人、そのうち助かったのは65人とされているとのこと

慈母観音像

先の近海丸殉難者之碑とともに建立されている。

由緒書

式見村を領有した大村藩の絵歴史書「九葉実録」によれば、当社の社名は「粟嶋社」と記されています。
この式見村の代々の住人 森嘉兵衛は長年病勝ちで、一心に病気が治ることを朝夕 淡嶋の神に祈っていたが、ある夜、夢の中に白い老人が現れ「我レ即チ淡嶋の大明神ナリ願クハ此ノ村ニ勧座セム事ヲモトム」と言い終わりて去った。
夢が覚めても後も不思議な思いがして、夜が明けて家を出て海上を見れば、光り輝くものが見える。そこで嘉兵衛は網を入れると海中より一体の尊神を授かった。
それは夢に現れら霊験あらたかな淡嶋大明神に違いないと自宅に持ち帰り安置し、真心を込め祀っていた。そうすると病も次第に平癒し。八十歳になってもいまだ健康で家中病気をするものもなく、婦女子が子授けを願えば必ず授かるという神応を得られた。そこで嘉兵衛は家人だけではなく里民の加護を願い「家句山」の一画を開き社殿を建立しました。その後
昭和四十年淡嶋神社一帯の公園化を期して造営されたのが現在の社殿です。
 「淡嶋神社由緒記」より

基本情報

【住所】長崎県長崎市向町313
【撮影】2023年4月1日
【祭神】少名昆古那尊(少彦名命) -すくなびこなのみこと-
【総本社】淡嶋神社(和歌山県和歌山市加太)
【創建】615年






【向町】乙宮神社(おとみやじんじゃ)

外観

鳥居

由緒書

本殿

神社から見た式見の町

本殿から鳥居に向かって見た景色

歴史

古くは乙宮権現・矢筈権現と称した。乙宮の由来は祭神素盞嗚命が天照大神の弟神に当たることから,弟君を祀る弟宮が乙宮になったものと思われる。創祀未詳。もとは式見浦西方4kmの沖合いにある神楽島の飯盛山に鎮座していた。風雨のため渡海参拝が不可能なことがたびたびあり,式見浦の池平に遥拝所が設けられた。その後式見浦北東の八筈岳に遷座,矢筈権現と称するようになった。この頃から9月9日の祭礼に神輿渡御が行われ,現社地の干切(ひきれ)島を御旅所とした。天正年間に干切島に遷座,乙宮権現と称した。江戸期には金蔵院という山伏が宮守を勤めた。明治3年乙宮神社と改称,同5年郷社に列した。拝殿に10枚余の武者絵の絵馬が現存する。例祭は10月29日。祭礼武見くんちの名物である女相撲は明治28年の日清戦争凱旋記念として始まった。

式見乙宮神社の絵馬

乙宮神社拝殿に奉納額は第一面・第二面を連続仕立てとし、 奉納絵馬は別額仕立てとして保管してある。
奉納額の奉納者は藤原(渡辺)綱豊(つなとよ)であるが、 万延元年(1860)大村領式見浦手代として着任した綱豊は、 翌文久元年(1861)同地が干害で住民が困窮している実態を見て甘藷(かんしょ)栽培、 加工食糧保存を指導した。
藩主大村純煕(すみひろ)は綱豊に稈(わら)150俵を賜給(しきゅう)するが、 その感謝の意を表して大村藩内の俳人に連絡し、75名から100句を集め奉納額とした。同時に綱豊は幕末期の大村藩絵師山崎雲仙に式見浦の漁撈法である縫切網(ぬいきりあみ)を描かせている。
奉納絵馬の奉納者は渡辺長吉(わたなべちょうきち)であるが、絵柄は式見浦を西海岸から一望する背景に千石船が乙宮神社前を通過する場面を描いており、他に帆船七隻が描かれている。

参照元:長崎市市役所HP

基本情報

【住所】長崎市向町316番地
【撮影】2023年
【祭神】健速須佐之男命




頑張って随時更新中!( `ー´)ノ

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